備忘録
ぼっと考えていることのリスト。それすら、リストにしないと忘却の彼方へと飛んでいく。
サッカーの応援って何だろう
推しと結婚と推し活 または、妄想なのか幻想
女子サッカーのこと。私には何ができるでしょうか
ウーマンリブからフェミニズムへ 勉強したい?
ぼっと考えていることのリスト。それすら、リストにしないと忘却の彼方へと飛んでいく。
サッカーの応援って何だろう
推しと結婚と推し活 または、妄想なのか幻想
女子サッカーのこと。私には何ができるでしょうか
ウーマンリブからフェミニズムへ 勉強したい?
ちょっとというか、かなりダレている。母が亡くなって8カ月。勢いで遺品を整理したり、家を綺麗にというか、清潔な感じに整えようとしてきたけれど、ここ2カ月ぐらいで徐々にスローダウン。まもなくエンジン停止かしら。
父の時も似たようなことは経験した。生活する上で必要な諸手続きもあり、追い立てられるようにして動き回る。躁状態に近いのかもしれない。そんな状態はずっとは続かない。疲れるのか飽きるのか、どうでもよくなるのか、そのすべてなんだろうけど、日常に戻る。以前の生活に戻る。でも、ふむ…困ったものだ。以前の生活には母がいた。母の世話をするという大きな、大き過ぎる責任が生活の中心にあった。今は何もない。
それでいて、中途半端な片付けに終わっている家の中が気になる。雑草だって伸び放題だ。しかし、この暑さの中、蚊に刺されながら草むしりをする気にはならない。
少し涼しくなれば、何か変わるのだろうか。そう願いたい。季節と移ろいとともに生きるワタシ…。
久々に一気に読んだ。読みやすかったということもあるけれど、まるで映画かドラマを見ているように情景が浮かび上がってきた。そのせいか、読後も時折、脳内で「祖母ロン」が再生される。
おそらく30年近く前の話だろう。こんなに豪勢で優雅な旅の経験はないけれど、はじめのアフタヌーン・ティー、異国の地で食べたお寿司、デパートの香水売り場の匂いなどを思い出しながら、声を出して笑ったりホロリと泣いたりしながら読んだ。80代のおばあ様は姫なので、したい放題、言いたい放題である(といっても、体力に限りがあるので24時間続くわけではない)。介護&添乗&通訳&ガイド&身内である著者は頭に来ることも多々あったと思う。時間が経って振り返って書くことで、思い出が美しく残され、読者もワクワクさせてくれた。最高である。
それにしても、自信満々なおばあ様が素晴らしい。なぜ、そんなに自信があるのかという孫の問いかけにもしっかりと話をしてくれる。孫の性格の問題点にも踏み込む。この旅のあとは、おばあ様とあまり話さなかったと書いてあるけれど、これだけで十分すぎるぐらい十分だと思う。
読んでいる私にもグサグサと刺さった言葉を要約すると、あなたに足りないものは自信。自信がないだけじゃなくて、自分の値打ちを低く見積もってる。謙虚と卑下は違う。相手に見くびってもらって楽をしようとするのはやめろと。それは謙虚ではなく卑下でみっともない。楽をせず、努力しなさい。
自分が謙虚な人間だと思ったことはないけれど、若いころから自信がなかった。劣等感の固まりだと思っていて、中学のころ、「なんで? そんなことないよ」と言われたこともあった。しかし、成績優秀、何かに秀でてる、自信満々に見える、そういう人たちに囲まれて、今も自分に自信がない状態は続いているのだと思う。明るくサバサバした性分で言いたいことをはっきり言うので、傍目にはそのようには見えなかっただろう。しょっしゅう、親に叱られていたので、自信のなさを親のせいにしてきた。歳を取って、できないことに対して、自信が持てないことに対して、おちゃらけて開き直ってきた。万が一の失敗を恐れて、自分の評価を下げてきた。まさに卑下である。そんなふうに生きてきて、今や65歳と7カ月。本から容赦なく飛んでくるグサリグサリ。正直言ってきつい。
片付けが終わらない。まったく終わらない。一生終わらない気がしてきて気持ちが悪くなることすらある。そもそも必要なのかと思ったりもする。生活できないわけじゃないし、このままでいいんじゃない?
しかし、ここまでだらしがない人だとは思われたくない。万が一にも私がバッタリ倒れた場合、この家に入ってくる人はどう思うだろうか。
「まぁ、汚い家! 散らかり放題! よーくこんなところで生活できたわね! 足の踏み場もない!」と言われたくない。単なる見栄である。それとも恥の意識だろうか。部屋の入口に「片付け中」という張り紙を貼っておきたくなる。
でも、片付けるのは捨てたり、日本人が大好きな収納を頑張ればいいのだ。簡単と言えば簡単だ。そのはず!
問題は…
この家の「主婦」だった母は、整理整頓が得意だったわけではない(一時的に押し入れや洗面所に物を移動させるときはマッハの力を発揮していたが)。潔癖なほど徹底的に掃除をしていたわけでもない。背も低かったから高いところは面倒だったのだろう。使うこともなくなる。それと、亡くなって思うことは、家事をするより遊ぶことを優先していたのだなと。その気持ちはよく分かる。
私は私で「自分の家じゃないもん…」と自分の部屋以外の様子をちゃんと見たことはなかった。だから、今、家の中を目を凝らしてみると、51年に及ぶ汚れと経年劣化ですさまじいことになっていて茫然としている。写真に撮れば、間違いなく「閲覧注意」である。掃除を徹底的にしたところで無理があるんじゃないかと思う。
そうは思っても、仕方がないので母と過去の自分を恨みながらボチボチやっている。床が抜けるのではないかと心配だった畳の部屋はフローリングにした。押し入れをクローゼットにするとか、段差をなくすとか考えたけれど、予算のこともあり、床の間、柱、壁はそのままである。昔の板の間と思えばいいと決断した。インスタもこれまでにないほど見ている。多いに参考にさせてもらっている。Googleの画像検索も便利だ。
今の趣味はよそ様の家の中を覗くのことだ。みなさん、工夫して素敵に暮らしていらっしゃる。文句があるとすれば、古民家だとか築古とか言っていても壁も床もリノベーションしているから綺麗なものである。この51年前の壁を取り払って新しい壁にするとか、年金暮らしには無理である。
せめて、清潔感、整理整頓だけは心がけられるようにその土台を作りたいと思っている。つまり、手が届いていなかった場所の51年分の汚れと取るところからだ。取れるのか? 取れないと思う! どうする、〇〇(本名)!
高齢者にとって小さなことが今までの生活を一変させるという様子を目の当たりにしたひと月だった。
ご近所に50年に及ぶお付き合いの家がある。高齢のご夫婦で「なんとか生活をしている」様子で、夫婦が協力しあって自分の家でマイペースで生活していられるのは素晴らしいなと思っていた。一応、説明すると、「なんとか生活している」は、たまに間違えたとしてもゴミを出し、毎日料理をしなくても食事ができて、近所に買い物にいき、お風呂にも入れるということであって、家の中が整理整頓されているとか、言われたことを100%理解しているとか、覚えているということではない。でも、でも、その「なんとか生活している」が小さなことで、あっという間に「生活できない」になってしまった。今までの生活が崩壊した。
老々介護の危うさを他人事ながら痛感したというのも変だが、歳をとるというのはこういうことであり、次は私たち世代なんだと、どこの何に突きつけられているのか分からないけど重い。
親世代の寿命が長く、90歳越えの親がいる人はざらにいる。デイサービスで、90歳の母は若手ですと言われていたぐらいだ。だから、その子供世代がすでに高齢者の仲間入りをしている。老後を迎えている人が老後の先輩を介護している。
非常にリアルな現実を目の当たりにしながら、暗澹たる気持ちにもなるけれど、考えるきっかけにはなる。よく言われるように、どう死ぬかはどう生きるかなのだから。
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