日常生活も変わる
それは日曜日の午前中だった。
トイレットペーパーがなくなりそうだったから近くの生協まで買いに行こうと出かけた。
生協に行く前に近所のスーパーを除いたら、レジの列が異常だった。そして、いつもは閑散としている生協の前が自転車でごった返している。当然のごとく、トイレットペーパーはなかった。
でも、この頃、スーパーで買占め活動を行っている人は殺気だってなかったと思う。むしろ、不気味なくらい何食わぬ顔をしていたと思う。うちだけは何があっても困りませんと、自分の先見の明を誇るかのように・・・・。
というのは、うがった見方だろうか。
日曜日の午後、懐中電灯の電池が切れていたので買いに行く。この頃になると「もうないかも」という気がしていた。案の定である。大手家電量販店には単1と単2がなかった。念のために聞いたら、懐中電灯もなかった。どこの家も電池切れか・・・。ラッキーにも薬局で見つけて2個買う。
停電に備えてか大地震に備えてか、懐中電灯、トランジスタラジオが売り切れになる。
この地震の後だったか、いまや記憶があいまいだが、テレビでなんどか「自助、共助、公助」という言葉を聞いた。
「自助」は、自分でまずは備えること。次にするのは、「共助」。周りの人と助け合うこと。最後が「公助」。公の機関の助けのこと。
私同様、多くの人が自助を行う準備がわるかったんだろう。のど元過ぎればで、買ってあった防災用品は部屋の隅に追いやられ、その上に物が重なり・・・・。中身が何かも覚えていない。開けてみれば懐中電灯もラジオも電池切れ。
買占めは行き過ぎた「自助」だろうか?
トイレットペーパーやお米ががなければ、近所の人に貰えばよいのだ。昔の日本はよくそうやって隣近所と貸し借りをしていた。懐中電灯がなかったら、お隣さんと助け合えば良いのだ。
物流が回っていない今は、「自助」を過剰にすべき時ではないはず。
まして、食べきれないほどの買い物をするのは愚か以外の何者でもない。普段でも食卓に食べ物が残っていることが多いはず。うちもそうであるが。
食べられる量だけ作れば良いのだ。少なめでも良いじゃないか。メタボ解消だ。育ち盛りのお子さんがいても、これが1年続くわけじゃない。
備えが良いとばかりに、停電の間、石油ストーブを使っている家もあるらしい。その石油は被災地に回してほしい。家の中に病人がいなければ、3時間、厚着をして過ごせばいいだけのことだ。うちは停電にはなっていないけれど、私は我慢大会と思って自分を楽しんでいる。M?(^^;
経済を回すために消費することも必要だし、生きていくためには楽しみも必要。でも、被災地にいる人のことは忘れたくない。
本当に自分の価値観が試されているのだと思う。
日本で多くの人が自分を見つめなおしている。
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