ひとごと
デーモン小暮閣下が朝日新聞の朝刊「私の視点」で大相撲界のことに触れ『みんな「ひとごと」を変えよう』と題した文章を寄せている。それを読んで、前から、たぶん2年前から気になっていたことを書こうと言う気になった。偶然ではあるけれど、ヴィゴも"GOOD"という新作のプロモーションで次のように話している。
(日本公開未定。ヒットラーの時代に一人の教授がナチスとなっていく姿を描いた映画←まとめかたとして上手ではない。すまん)
「これは1930年代のドイツやドイツ人の話ではないんだ。市民が注意を払わないでいたらいつでも起きることだ。小さいことであれ大きいことであれ、私たちが下す決定についてであり、それが自分たちが生きている社会や国にどういう影響を及ぼすかということなんだ。どこででも起きうることだ」
身近なこと、趣味の世界でも政治の世界でも、「ひとごと」と捉えていては何も変わらないし、そういうことをしているうちに「頭のいい人」に良いようにされてしまうのだ。
私はここ3年ばかり、自分より20歳以上も若い人たちを中心としたグループと一緒に仕事をしてきた。そして、しょしゅう思っていたことは、他人に対して優しいのか、他人のことなんてどうでもいいと思っているのか、なんか全般的に「情が薄い」と。それは、あらゆる喜怒哀楽すべての面で感じた。自分自身のことだって、今ひとつ熱心さに欠けているのではないか、自分中心のようでいて、何か真剣みが足りないというか、現実が見えていたら、そこはもっと怒るべきところじゃないのか?と思うこともしばしばだった。
そして、それは、2006年ワールドカップ後の日本代表選手の何人かに見られた姿とだぶった。それが誰だったか何をどう話していたからそう感じたか忘れてしまったが、私が「自分自身のことではない=ひとごと」なのに、こんなに悲しい思いや悔しい思いをしているって言うのに、当事者である選手の話していることが「ひとごと」と感じられるのだ。自分のことは語っている。でも、自分が所属している日本代表と言うチームについて、なんだか「は? あんたがそのメンバーの一人ではないのか?」と言いたくなることがあった。
これは、「今時」の若い人だからなのか・・・。共通しているのか・・・・。
違う。
ふとまわりを見れば、何か違うのではないの?と、特に責任ある立場の人間に対して思うことが多くなっていた。
私にとって身近な例をあげれば、サッカー協会、日本代表監督、オリンピック代表監督、元の派遣会社、派遣先の会社・・・・
インタビューなんて言うのは聞き方にも問題があるので、私が知りうることがすべてだとは思わないけれど、責任ある立場の人たちから聞けるであろう決心や責任感が感じられないのだ。先のことに対する計画性もない。表現する言葉を持たないのかもしれないが、そういう人は上に立つべきではないのだ。
その昔から「あー」とか「うー」とかしか言わないでも首相になれた国だから仕方がないのか・・・。
元の仕事場に関しては、書き出すとキリがないけれど、自分たちの生活を守る必要はわかる、でも、その自分の生活を今、支えているのが派遣社員であり社員だろう。それを忘れてがわざと見ないふりをして、「世の中の流れの中では仕方がないのですよ、わはは!」とまるで目の前にいる人間も「ひとごと」なのだ。
どうなってしまったんでしょう、日本人は。
そういう私も日本人。この社会に生きている日本人。こんなところで書き散らかして何かを言った気になっている日本人のひとり。「世の中、こんなもんよ」と諦めてしまった自分がいる。あかん・・・。
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