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quarta-feira, 5 de janeiro de 2005

何か変・・・・

新春早々、おもしろくない話で申し訳ないようですが、前々から思っていたことを私としても吐き出してしまわないと、腹がますます黒くなるようで・・・・。引き金は朝日新聞(4日朝刊)の新コラム「私たちがいる所」で作家の桐野夏生さんが言っていたことにあります。

私は彼女の本を読んだことはないしどういう人なのかも知りません。それに『「中流」家庭の階層分断』と題された文章の趣旨とは違うところで私は反応をしてしまったのだと思う。

主婦たちの犯罪を描いた小説「OUT]に描かれている女性パート労働のこと。一部を書き抜きさせてもらうと、

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「休憩時間もなく、トイレへ行くのも許可制で、更衣室は男女共用です。奴隷工場ではないか、と私は思いました。
奴隷とは、努力しても「なりたいもの」になれない人々のことです。一生「下働き」をさせられる女性がそれです。
彼女たちは家計補助や小遣い稼ぎのために働いていました。妻たちのこんな過酷な労働実態を夫は知っていただろうか、と私は考えました。「中流」に見える家庭の中に「階層的な分断」があることを(私の註:夫がホワイトカラーで妻がブルーカラーであること)夫は、社会は知っていただろうか、と。
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さらに、派遣労働についても話をしています。
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一つ目は、派遣労働の増加による女性たちの貧困化です。私の事務所も人材派遣会社を利用したことがありますが、業者は女性たちを「容姿の美しい人」「英語力のある人」「四大卒の人」などとカタログの中の一人のように扱っていました。「気に入らなければ10日で切っていい」という話も伝わってきた。「OUT」の主婦は直接雇われていたけれど、派遣によって女性は中間搾取までされるようになったのです。
二つ目は若者たちの転落です。彼ら・彼女らは今、フルタイム労働に就ける機会を極端に制限され、安価なパートタイム労働力として使い捨てられています。先日ある女子大生に「なぜ怒らないの」とたずねたら、「怒れません。男子も同じですから」と言われました。若者は絶望感にとらわれ、「なぜ私たちは使い捨てられるのだ」と批判の声をあげることすらない。 
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私は2002年7月から職に就いたり就けなかったりする状態が続いている。そういう状態になって知ることも当然、たくさんあった。「その身になってみないとわからない」ということを実感するのである。

派遣会社に登録に行った時に思ったこと。「禁煙オフィスが良いか」「ビルは大きい方がいいか」などと細々したことを聞かれたが、私のパーソナリティについて、私のキャリアについては、いったいどれぐらいの関心を持ってくれたのだろうか?
桐野さんが書いているように、カタログである。たぶんカタログに載せきれないほどの登録者がいるから一々、細かいことまでやってられないと言うのが現実なのかもしれない。しかし、仕事をするというのは機会じゃない。人間が人と協力してすることだ。もう少し個々を見た方がいいんじゃないの?とおせっかいにも思ったものだ。

そして、私なぞは「年齢」という分類で軽く切られて終わりである。そんなことなら登録に行くのはムダだから最初からそう言ってくれと言ったら(こういう風に言ったわけじゃないけれど(^^;)、表向きは年齢で切ることは出来ないわけだから、「そ、そんなことはございません・・・・」ときた。

さらに、驚くべきはその賃金である。これで東京で生活していけるのか?と思う。家がある人は、なんとかなるかもしれないが、家賃を払っている人は苦しいのではないだろうか。そのことを知り合いの派遣会社の人に聞いたら「そうなんですよ。だから、みなさん、残業が多いところが良いなんておっしゃるんです」ときた。(誰が好き好んで自ら「女工哀史」のような労働条件に身を投じていると思うのだ?)

さらにさらに、驚いたことには、その派遣労働の賃金より安い給料が存在することである。そして、私がそこで働いていることである。いろいろ事情があって仕事を受けてしまったが、日々、仕事をしていて「なんか変ではないだろうか?」とどうしても思ってしまう。

私が20年以上前に貰った初月給より安いってどういうことなんだろう? どうしてこういう給料を提示できるのだろう? どうしてこういうことがまかり通っているのだろう。そして、おそらく、それは私が行っている会社だけじゃない。
私が初月給を貰った会社は、確かに当時、「高給」で有名ではあった。しかし、私はそれはシフト勤務で様々な手当てがついていたから当然だと思っていた。なんといっても、労働環境は悪かったし労働は過酷だった。だから、これぐらい「小娘」だろうが貰っても良いと思っていた。

私は、その気前の良い会社を辞めてから様々な職についてみて、さすがに「あれは貰いすぎだった」と思うようになった。労働を賃金で評価することはむずかしいし、世の中に「公平」なんてものはないと思っているけれど、「貰って当然」と思える額じゃなかったことは実感した。

ある労働について、この賃金が妥当だ・・・ということなど出来ないとは思う。同じような労働をしても賃金差があるのはある程度仕方がないと思う(どの程度?)。

しかし、今の社会の労働賃金や形態って良いことなの?

年功序列社会が崩れて以来、日本の会社は様変わりしてきていると思う。長く居るだけで威張っている、男だと言うだけで経験もない人が上司になる(これは今でも多発しているのかな)、こんな胸糞の悪いこと(言葉が悪くてすまない)がなくなるのは良いことだと思う。でも、実力社会って何なのだ? その実力って正しく評価することって出来るの?

実力社会の大先輩であるアメリカの会社を垣間見ている限り、評価の仕方はむずかしいというか、ほとんどの場合、間違っていると思ってしまう。大抵の場合、口の立つ人が勝つのである。コツコツと働き、人の話に耳を傾ける人はいつの間にか消える。そして、派閥は存在していないようで存在している。日本以上にコネ、贔屓の社会だと思うことが多かった。

私は今の大企業のことは知らないけれど、似たようなことになっているのではないだろうか?
そして、社員のモチベーションはどうなっているのだろう?

人間って悲しいかな些細なことでやる気が出たり出なかったりするのである。どんな条件でも一生懸命働きますとは言えないのだ。出来ない。少なくとも私は出来ない。いや、しないようにしているのかもしれない。なぜなら、働き損だと言うことを学習してしまったからだ。

時給が300円でも500円でも多くて残業もちゃんとつくとなれば、もっと仕事をしてみようとも思う。実際に「とりあえず後回し」にしている仕事を私がしたら私自身の仕事もやりやすくなるし会社の利益も上がるかもしれない。でも、しない。「使い捨てられる」ことが見えているからだ。

経営者になったことがないから経営側の言い分はわからないし、ここではそんなことを考慮するつもりはないから無視しておく。
雇われている方は賃金や待遇から経営側が人を人として見ているのか、自分にとって都合の良い駒としてしか見ていないのか判断しているのだ。それが日々の仕事に影響していると私は思う。

それはそれでも良いという経営者が多いのだろう。目先の利益が上がれば良いのだろう。でも、これは社会全体の問題だ。日本の経済がぱっとしないのはこういうところにも問題があると思う。これからの働く力になる若者が絶望感で一杯だなんて、こういう実態を政治家や経営者のみなさんは、わかっているのだろうか?

あえて派遣労働の道を選んでいる人もいれば、好きで定職につかない若者もいるだろう。でも、そういう人があたかも大多数であるかのように捉えているのは間違いだと思う。

私は「これが現実だから」とあきらめてしまう前に、もうすこし悪あがきをしたいと思う。求む、悪あがき仲間! (^^;

世の中、そうしないと変わらないよ。

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Tracked on quarta-feira, 5 de janeiro de 2005 17:51

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